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【歴史漫画】風雲児たち第4巻読んでみた【蘭学事始】

 

宝暦治水 美濃の民を思って

木曽三川の治水工事は、難工事で、なかなかうまく進みません。
そもそもなぜ暴れ川になるかというと、三つの川の高さが違うからなのです。

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木曽川の水があふれると、長良川の方へそして揖斐川へ落ち込んでいって、大洪水になるのです。
戦国時代から、洪水で大変だったのは有名ですが、尾張の国が、御三家になってからは、尾張側のみ堤防が築かれました。
そうなると、余計に水の行き場がなくなり、美濃方面は、今まで以上に洪水に見舞われるようになってしまったのです。

難工事により、さらなる出費が必要となり、家老の平田は、必殺技というか裏技で、なんとかお金を調達します。
死にもの狂いで、堤を完成させた時、なんと平田は借金の責任を取って切腹してしまうのです。
あーしっかり顔の平田よ…死んでしまうとは…情けない

美濃の民たちの命を救うことになったこの大事業によって、今でも鹿児島と岐阜の友好関係が続いているそうです。

 

蘭学はっじまるよ〜

この4巻から、蘭学編が始まります。
江戸時代に連綿とというか細々と続いた蘭学。この細い糸が、後々の世に大きく影響を与えていくことになるのです。その創始者こそ、「前野良沢」です。教科書で、杉田玄白と一緒に習ったと思いますが、いまいち印象が薄いですね。

高山彦九郎と前野良沢

高山彦九郎と前野良沢

彼は藩主に許されて、蘭語の勉強に長崎に留学していました。
100日ほどの留学でしたが、さっぱり蘭語をしゃべれず、単語を100個程度集めてきただけでした。

なぜそんなに苦労したかというと、まず通訳(通詞)は口語のオランダ語を学びますが、文字を学んではいけないことになっていたのです。
で、洋書だけが流通するのですが、誰も読めないのです。青木昆陽が、頑張って700語ほどの単語をまとめますが、文法がさっぱりわからないのです。
というわけで、オランダの物など文化は入ってくるが、だーれも書物が読めない状況が続いていたのです。

彼は、医者です。お上は、医学の進歩は人命を救うことから、蘭学を学ぶことに対して医学分野だけは大らかでした。
彼の長崎留学の成果は、「ターヘルアナトミア」と呼ばれる人体解剖の医学書を持って帰ってきたことでした。
この時代は、中国から伝わる解剖図があるのですが、これ実は違うんじゃない?という意見が出てきていました。
そんな中、死体の解剖(腑分け)が行われると聞いて、前野と杉田は見学に行くことになります。
衝撃の人体の中身を見て、またオランダの解剖図と瓜二つなのを確認し、蘭学の偉大さを認識するのです。
そして、杉田玄白と一緒に、この「ターヘルアナトミア」を翻訳していく決意をします。

翻訳活動には、中川淳庵も参加して行いますが、初日はなんと一行どころか一語も訳すことができません。
あまりにも大きな壁に早速、くじけそうになる面々達…なのです。

 

尊皇家 高山彦九郎

高山彦九郎って知っていますか?普通の人は知らないと思います。戦前なら有名だったようです。
私も知りませんでした。ただ、三条大橋で土下座している人だよっと言われたら分かります。京都の人は知っている、ちょっとした有名人です。

彼は、上州の出身で、学問をしていくうちに勤皇の精神に目覚めるのです。
熱血タイプの高山くんは、当時の世間には天皇サンがいることすら知らない人があまりにも多いので、世間に少しずつ尊皇精神を広めようと決意し、全国を旅するのです。

 

奇才天才何でも屋 平賀源内

平賀源内といえば、”エレキテル”や”土用の丑の日”が有名ですね。

発明家でありながら、科学者でもあり、博士でもあり、
絵かきでもあり、商売人でもある才能に溢れる人物です。

私は知りませんでしたが、狂言の脚本家や小説家もしていたそうです。

彼は、浮世絵師の鈴木春信の師匠でもあります。
当時の浮世絵は、一色か二色刷りでしたが、
源内が多色刷りの手法を開発し、大量生産を可能にしたのです。

この後、喜多川歌麿から写楽・広重・北斎へと大版画時代へと繋がることを考えるとすごいでしょ?

そんなすごい源内ですが、錦絵に留まらず、西洋画も始めていくのです。
明治に洋画と日本画の潮流となる原点に源内はいるのです。

 

 

憂国家 林子平

林子平の父親は、人を斬ったことで主家を追放され、家族もバラバラになってしまいます。子平は親戚の医者の家で引き取られます。
子平の姉は、うまいことして伊達当主の側室になります。

子平も伊達藩士として仕えますが、侍の次男・三男は後継補欠要員のため、死んだ時のピンチヒッターとして
部屋住みで飼い殺し生活を送ることになります。

本来なら鬱々とした日々を送るところでしたが、彼はそれを前向きに捉え、この機に、医学を始め、政治経済、地理、歴史、そして兵学を学んでいくのです。

世の中のことを知れば知るほど、何とかしたいという思いに駆られ、仙台藩が富めるようにと建白書を作り、提出します。

しかし、彼の身分不相応ということで、ろくに取り上げもらえず、禄を返上し(シャレ)、自由人となって全国を旅し始めます。

旅の中、国を思う情熱を、全国のいろんな人にぶつけますが、まだまだ世の中は太平で、子平の言っていることが伝わりません。

そんな時、彼ら、高山彦九郎・前野良沢・杉田玄白・平賀源内らと出会うのです。

 

 

【江戸の始まり】風雲児たち第3巻読んでみた【会津・水戸】

3巻は、2代将軍秀忠から4代将軍家綱までになります。

・・・秀忠〜家光〜家綱 ・・・

 

江戸時代の始まり

大阪城の戦いがあっという間に終わり、江戸時代の到来となります。
徳川家は、まず「武家諸法度」を発表しました。
天皇の権威を恐れた徳川家は、法度の中に、朝廷との交流と京都の通行を禁止します。参覲交代でも、通ってはいけなかったそうです。知りませんでした。

朝廷には、「禁中並公家諸法度」(語呂がいい!)を発表し、自由に動けなくします。大名と朝廷との交流を切り離しましたが、毛利家だけは、朝廷から「朝臣」の官位を受けていることから、唯一、朝廷への献金を許してもらいました。このことから、結局、幕末まで朝廷との関係が続くのです。

寺社にも法度を発令し、布教活動を禁止します。その代わり、檀家制度を設け、寺社は食いっぱぐれる心配がなくなるのです。この制度は、住む地域によって檀家寺が決まり、自分で宗教で選べられないのです。だから、今でも田舎に行くと、みんな同じ宗教なんですね。この制度をきっかけに、宗教家はただの葬式屋へと堕落していきます。

歴史を学び、政権崩壊のきっかけを研究した家康は、天皇の存在を恐れました。しかし、天皇を殺してしまうことはできません。そのため、自分が死んだ後は、自分が「東照大権現」という神となり、もし朝廷と対立しても、関東朝廷として「錦の御旗」を掲げられるようにとのことで日光を作ったようです。私は、単純に、江戸の守り神かと思っていたので、そこまで考えていたのかと驚きました。

江戸幕府の話に移ります。

江戸初期は、江戸と尾張と紀州の3つを御三家としていました。
その後、11男の頼房が水戸に入ったことで、尾張・紀州・水戸が御三家となりました。授業で習いましたね。

御三家

御三家

秀忠の後、家光が3代将軍となります。駿河大納言の話とかは省略されていました。この家光の時に、幕末まで続く鎖国政策をとることになります。

御三家のひとつ、水戸藩の話が出ます。参覲交代はすべての大名の義務だったのですが、水戸藩だけは、江戸から近いということで参覲交代せず江戸住みで将軍の相談役という役目を負うことになりました。その為、水戸藩は、そんな役職はないのですが、自分たちは特別な存在で、「天下の副将軍」と思ってしまったのです。

黄門しゃまとスケカク

黄門しゃまとスケカク

水戸家の三男光圀(黄門様)は、中国の史書のように、きちんとした日本の歴史をまとめたものが必要だと決意します。そこから「大日本史」の編集が始まるのです。宋学の影響をもろに受け、「尊王攘夷」という言葉も使います。そして、徳川将軍家を皇帝として敬うのではなく、天皇家が皇帝であると結論付けます。そのため、天皇寄りの史観で歴史を編集することになります。その結果、足利尊氏が悪人で、楠木正成が正義の人とか、そういう感覚が戦争が終わるまで引き継がれていくのです。

また、有名な助さん角さんですが、この大日本史の編集リーダーが安積覚(角さん)で、全国の古文書を求め旅をするのが佐々木介三郎(助さん)。黄門様は、全く旅をしていません…というネタバラシでした。

会津の始祖、保科正之

静たんの息子は、信州高遠藩の保科家の跡取りとして引き取られます。成長し、「保科正之」と名乗り、とうとう将軍家とお目見えします。家光に認められ、正之は将軍を一生懸命に支え、長年奉公します。その貢献もあって、親藩となり、「松平」姓を名乗ることができ、さらに三つ葉葵の家紋も許してもらいます。さらには、信州高遠から、会津若松への加増・転封も命じられます。明治維新で最期まで徳川家を支えた会津藩がここに生まれたのです。

保科正之

保科正之

家光が亡くなり、4代将軍家綱の後見人として、この正之が命じられます。
将軍が幼少のため、正之が「大老」として国政を仕切ることになりました。

正之の在任中に、「由井正雪の乱」と「振袖火事」という2大事件が起こります。火事は江戸時代の最大の悲劇と呼ばれるほど死者を出しました。正之は、乱も見事におさめ、火事被害の迅速な救済措置と防火都市としての変革を打ち出します。

見事な手腕で、次々と政策を打ち出し、中興の祖とされる8代将軍吉宗の手本になったそうです。吉宗の政策は、ほとんどこの正之が行ったものを大規模にしたに過ぎないものでした。
なぜこんなすごい人が、知名度低いんでしょうね。

将軍が、壮年となり正之は大老を辞職し、会津へ戻ります。
会津の学問は、日本神道で、水戸学よりもずっと勤皇精神に富んでいます。
元々、武士は天皇の政治外で生まれた勢力で、当然武士道としては、将軍の命令は天子の詔より重いはずなのですが、水戸学はそれを無視しました。
会津は、その原則に従い、最期までどちらも守ろうとしたのです。そして、幕末での悲劇へと繋がっていくのです。(孝明天皇から最も信頼され、幕府を最期まで守った)

正之は、遺言として会津藩の家訓を残します。
「将軍家のことを最も大切にし、一心に忠義を尽くすこと!」
会津藩は、幕末までこの家訓を守り続けるのです。

 

薩摩藩、世紀の大工事に挑む

話が変わって、薩摩藩。
幕府から尾張の木曽三川の堤防工事を命じられます。暴れ川で有名で、度々洪水を起こし、当然、難工事が予想されました。その工事を、薩摩藩単独でやれという幕府の嫌がらせなわけです。費用も多額で薩摩負担です。無茶苦茶ですね。当時の幕府は強力ですから、こういうことも命じられたわけです。

幕府役人の嫌がらせと、さらなる追加の出費を命じられ、
借金を重ね、奄美群島などの島民を奴隷の如く酷使し、なんとか金を作ります。この後も、しっかり顔の家老平田の苦悩が続きます。

家老平田(顔しっかり)

家老平田(顔しっかり)

 

また、余談ですが、八丈島へ流されていた宇喜多秀家がこの頃亡くなります。82歳の大往生でした。どの武将よりも長生きしたある意味「勝者」です。
彼の子孫が多く、現在まで残っているそうです。

 

【歴史漫画】風雲児たちオススメする【1巻】

「風雲児たち」とは

表紙が劇画調で、本屋で見かけても手にとらないタイプの漫画です(ぉぃ
初見の人向けには、ちょっと表紙で損してますね。

中身は、結構ギャグを織り交ぜて、絵も崩した感じになっています。
連載から期間が経っていますので、時代を感じさせるギャグも散見します。

で、この歴史漫画ですが、私は受験生にピッタリだと感じています。
文字・解説が多いので、歴史嫌いの人は厳しいかもしれませんが、
普通以上の人であれば、グッと江戸時代の理解が深まります。

学校の授業では、教科書では、表面的にしか習わないこと、
単語だけ覚えていることが線で繋がります。

歴史って当然ですが、人の歴史なんです。
急に何かが起こるわけではないのです。
その辺がよく分かる非常に良い歴史漫画だと思います。

また、漫画を読むだけで主要人物名は覚えられるのも楽だと思います。
テキストの人物名だけ見て、暗記ってつまらないですよね。

そういう意味も込めて、気楽に読み進めていけば、きっと良い結果に繋がると思います。予備校でも指定図書にすればいいのに

風雲児たち1巻

・・・ 関ヶ原 ~ 戦後処理 ・・・

関ヶ原の戦いから始まります。最初は、石田三成と大谷吉継との掛け合い漫才からスタート。歴史好きには、常識ですが、一般人には非常識の、西軍大将が石田三成じゃなく、毛利輝元だよという点から解説してくれています。

この関ヶ原の戦いで、他の作者と違う着眼点が、薩摩・長州・土佐の大名に注目したことです。私はそのように見たことがなかったので、素直に目からウロコでした。彼らは、遠方からわざわざ関ヶ原に来ながら、何も出来なかった大名たちなのです。(島津は一戦しましたが)

漫画のマップを見ながら解説すると、

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布陣は、家康の周りが敵(西軍)で囲まれています。
重要なのは、家康後方の山(南宮山)を陣取る毛利と長曾我部です。
この山を降りるには、一本道を通らないといけないのですが、
その先頭に陣取っているのが、毛利の分家であり軍師として参加した吉川広家なのです。

吉川広家

吉川広家

この吉川が家康と内通していた為、毛利も長曾我部も動けず、一戦もせぬまま、戦いが終わり、退却します。

島津は、三成の隣の好立地に陣取りますが、戦が始まっても、戦闘に参加せず、勝敗が決してから、家康率いる東軍に真正面から突撃して、敵中突破の上退却します。1600名の兵の内、生き残ったのは60人と言われています。

島津義弘

島津義弘

戦後処理では、一矢報いた島津が、本領安堵。毛利は、総大将のため、本来は取り潰しのところを吉川の働きで長州と周防の2カ国へ減封、長曾我部は、取り潰しとなりました。
この3国のうち、唯一取り潰しとなった長宗我部盛親は、単身、京都へ出て寺子屋の先生として生きていきます。

こういったことが幕末への大きな布石となります。

また西軍の主戦力として活躍した、宇喜多秀家にも話を割いています。戦後、なんとか無事、岡山城まで逃げかえりましたが、すぐに逃亡します。戦後処理で、その岡山城を引き継いだのは、裏切り者小早川秀秋だったのです。

宇喜多秀家

宇喜多秀家

宇喜多は、小早川を一番信頼していました。今、放送中の大河ドラマ「真田丸」で常に、三成グループとして、この宇喜多と小早川がいつも一緒に行動しているのを見ても分かると思います。この後の展開を考えると今から涙が出てきます...宇喜多は、一本気で裏表のない人物だったんだろうなと思います。

風雲児たち第2巻のレビューへ続く