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雑記ブログをやっていますが、歴史系の話が多いので、独立してブログを作りました。歴史が好きな人はよりマニアックに、苦手な人も魅力を届けていきたいと思います。

長谷川等伯の小説ならコレ!魂を揺さぶる画家「等伯」がアツい!

長谷川等伯の生涯を描いた小説「等伯」を読んでみた

 

長谷川等伯ってどんな人?

歴史好きの人にとっては有名人ですが、一般人(美術好き以外)にはあまり知られていません。彼は、戦国時代真っ只中、狩野派が隆盛を極めていた時代に身一つで成り上がり、狩野派と肩を並べた絵師です。(どっちがすごいかは、画風が違うので単純に甲乙つけがたいかな)

豪華絢爛という言葉がぴったり似合う狩野派の絵は、派手好みの織田信長と豊臣秀吉にも重宝されました。対して長谷川等伯は、無駄を極力省き、禅の境地を取り入れる作風でした。その為、「侘び寂び」を求める茶の湯にも近く、千利休に気に入られ、彼らのグループの一員として活動するようになりました。政治的には、利休サイドだった為、後々苦しい立場に置かれますが、雪舟の後継者と自任するほどの腕前で絵師として名を馳せます。

彼の集大成として完成した絵が「松林図屏風」です。朝霧の立ち込めた砂浜に立つ松林の間を通り抜ける風を感じます。また、狩野派のような豪華な絵やお堂の天井に大きな龍の絵なども描いています。数多くの作品が残されていることから、いまでも楽しむことができます。

 

小説「等伯」について

安部龍太郎さんの作品で、2013年に「直木賞」を受賞した小説です。

【主要な登場人物】

・長谷川信春、(長男)久蔵
・畠山義続、義綱
・古渓宗陳(朝倉宗滴の子)
・関白近衛前久
・狩野松栄、永徳
・春屋宗園
・千利休
・前田玄以

【簡単なあらすじ】

生まれの能登七尾で絵仏師をしていた頃から話は始まります。主家畠山家との繋がり、京へ出て絵師としての腕を磨きたい思い、同時に家を大切に守っていきたい思いなど葛藤から始まります。

思わぬ形で京へ上れましたが、織田勢に睨まれ不自由な生活を余儀なくされます。畠山家の縁で、近衛前久を紹介してもらい彼の縁で、少しずつ有名になっていきます。一時、狩野派にも弟子入りできましたが、当主の狩野永徳とはウマが合いませんでした。

何とか自分の店を持ち、少しずつ売れていき、長谷川派を立ち上げました。その結果、狩野派とは、寺社・城の襖絵などでぶつかり、さらに対立を深めていきます。そこには単純に彼らの心情・プライドの対立だけではなく、裏では支援者たち(パトロン)の対立でもありました。

純粋に絵を描きたいだけでしたが、少しずつ「政治の波」と「実家の縁」に飲まれていきます。そこには、なんともやる瀬ない、悲しい現実も待っていました。

彼の絵は、彼自身の才能から発せられるものであり、まさに”天賦の才”と呼べるものでした。彼のその才は、息子には受け継がれず、息子は、努力次第で技量の獲得できる狩野派に惹かれました。そういったすれ違いも、悲しい結果を生む要因となりました。

彼の渾身の出来の絵は、全て自身の気持ち・思いが込めたものでした。どのように描いたのは本人にもわかっていない、まさに魂を混入した作品だったのです。常に「己の敵は己」であって、苦難の連続に立ち向かいながらも絵師として”業”に突き動かされ生き抜いた「孤高の天才」でした。

スポ根漫画を彷彿とさせる非常に熱い小説です。とても読みやすく、資料集やネットで彼の絵を見ながら読み進めて行くと非常に理解しやすいと思います。

 

等伯は、漫画「へうげもの」にも登場しています

余談ですが、長谷川等伯は、「へうげもの」にも登場しています。エラの張った四角い顔で出てきます。当時の織部には、その感性が伝わらず殺されかけます。反面、千利休には認められ、それ以降は、織部とは関わらないようになりました。もっと登場して欲しかったですが、残念でした。

水玉模様の襖を書いて怒られています

 

【歴史漫画】風雲児たち第4巻読んでみた【蘭学事始】

 

宝暦治水 美濃の民を思って

木曽三川の治水工事は、難工事で、なかなかうまく進みません。
そもそもなぜ暴れ川になるかというと、三つの川の高さが違うからなのです。

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木曽川の水があふれると、長良川の方へそして揖斐川へ落ち込んでいって、大洪水になるのです。
戦国時代から、洪水で大変だったのは有名ですが、尾張の国が、御三家になってからは、尾張側のみ堤防が築かれました。
そうなると、余計に水の行き場がなくなり、美濃方面は、今まで以上に洪水に見舞われるようになってしまったのです。

難工事により、さらなる出費が必要となり、家老の平田は、必殺技というか裏技で、なんとかお金を調達します。
死にもの狂いで、堤を完成させた時、なんと平田は借金の責任を取って切腹してしまうのです。
あーしっかり顔の平田よ…死んでしまうとは…情けない

美濃の民たちの命を救うことになったこの大事業によって、今でも鹿児島と岐阜の友好関係が続いているそうです。

 

蘭学はっじまるよ〜

この4巻から、蘭学編が始まります。
江戸時代に連綿とというか細々と続いた蘭学。この細い糸が、後々の世に大きく影響を与えていくことになるのです。その創始者こそ、「前野良沢」です。教科書で、杉田玄白と一緒に習ったと思いますが、いまいち印象が薄いですね。

高山彦九郎と前野良沢

高山彦九郎と前野良沢

彼は藩主に許されて、蘭語の勉強に長崎に留学していました。
100日ほどの留学でしたが、さっぱり蘭語をしゃべれず、単語を100個程度集めてきただけでした。

なぜそんなに苦労したかというと、まず通訳(通詞)は口語のオランダ語を学びますが、文字を学んではいけないことになっていたのです。
で、洋書だけが流通するのですが、誰も読めないのです。青木昆陽が、頑張って700語ほどの単語をまとめますが、文法がさっぱりわからないのです。
というわけで、オランダの物など文化は入ってくるが、だーれも書物が読めない状況が続いていたのです。

彼は、医者です。お上は、医学の進歩は人命を救うことから、蘭学を学ぶことに対して医学分野だけは大らかでした。
彼の長崎留学の成果は、「ターヘルアナトミア」と呼ばれる人体解剖の医学書を持って帰ってきたことでした。
この時代は、中国から伝わる解剖図があるのですが、これ実は違うんじゃない?という意見が出てきていました。
そんな中、死体の解剖(腑分け)が行われると聞いて、前野と杉田は見学に行くことになります。
衝撃の人体の中身を見て、またオランダの解剖図と瓜二つなのを確認し、蘭学の偉大さを認識するのです。
そして、杉田玄白と一緒に、この「ターヘルアナトミア」を翻訳していく決意をします。

翻訳活動には、中川淳庵も参加して行いますが、初日はなんと一行どころか一語も訳すことができません。
あまりにも大きな壁に早速、くじけそうになる面々達…なのです。

 

尊皇家 高山彦九郎

高山彦九郎って知っていますか?普通の人は知らないと思います。戦前なら有名だったようです。
私も知りませんでした。ただ、三条大橋で土下座している人だよっと言われたら分かります。京都の人は知っている、ちょっとした有名人です。

彼は、上州の出身で、学問をしていくうちに勤皇の精神に目覚めるのです。
熱血タイプの高山くんは、当時の世間には天皇サンがいることすら知らない人があまりにも多いので、世間に少しずつ尊皇精神を広めようと決意し、全国を旅するのです。

 

奇才天才何でも屋 平賀源内

平賀源内といえば、”エレキテル”や”土用の丑の日”が有名ですね。

発明家でありながら、科学者でもあり、博士でもあり、
絵かきでもあり、商売人でもある才能に溢れる人物です。

私は知りませんでしたが、狂言の脚本家や小説家もしていたそうです。

彼は、浮世絵師の鈴木春信の師匠でもあります。
当時の浮世絵は、一色か二色刷りでしたが、
源内が多色刷りの手法を開発し、大量生産を可能にしたのです。

この後、喜多川歌麿から写楽・広重・北斎へと大版画時代へと繋がることを考えるとすごいでしょ?

そんなすごい源内ですが、錦絵に留まらず、西洋画も始めていくのです。
明治に洋画と日本画の潮流となる原点に源内はいるのです。

 

 

憂国家 林子平

林子平の父親は、人を斬ったことで主家を追放され、家族もバラバラになってしまいます。子平は親戚の医者の家で引き取られます。
子平の姉は、うまいことして伊達当主の側室になります。

子平も伊達藩士として仕えますが、侍の次男・三男は後継補欠要員のため、死んだ時のピンチヒッターとして
部屋住みで飼い殺し生活を送ることになります。

本来なら鬱々とした日々を送るところでしたが、彼はそれを前向きに捉え、この機に、医学を始め、政治経済、地理、歴史、そして兵学を学んでいくのです。

世の中のことを知れば知るほど、何とかしたいという思いに駆られ、仙台藩が富めるようにと建白書を作り、提出します。

しかし、彼の身分不相応ということで、ろくに取り上げもらえず、禄を返上し(シャレ)、自由人となって全国を旅し始めます。

旅の中、国を思う情熱を、全国のいろんな人にぶつけますが、まだまだ世の中は太平で、子平の言っていることが伝わりません。

そんな時、彼ら、高山彦九郎・前野良沢・杉田玄白・平賀源内らと出会うのです。

 

 

【江戸の始まり】風雲児たち第3巻読んでみた【会津・水戸】

3巻は、2代将軍秀忠から4代将軍家綱までになります。

・・・秀忠〜家光〜家綱 ・・・

 

江戸時代の始まり

大阪城の戦いがあっという間に終わり、江戸時代の到来となります。
徳川家は、まず「武家諸法度」を発表しました。
天皇の権威を恐れた徳川家は、法度の中に、朝廷との交流と京都の通行を禁止します。参覲交代でも、通ってはいけなかったそうです。知りませんでした。

朝廷には、「禁中並公家諸法度」(語呂がいい!)を発表し、自由に動けなくします。大名と朝廷との交流を切り離しましたが、毛利家だけは、朝廷から「朝臣」の官位を受けていることから、唯一、朝廷への献金を許してもらいました。このことから、結局、幕末まで朝廷との関係が続くのです。

寺社にも法度を発令し、布教活動を禁止します。その代わり、檀家制度を設け、寺社は食いっぱぐれる心配がなくなるのです。この制度は、住む地域によって檀家寺が決まり、自分で宗教で選べられないのです。だから、今でも田舎に行くと、みんな同じ宗教なんですね。この制度をきっかけに、宗教家はただの葬式屋へと堕落していきます。

歴史を学び、政権崩壊のきっかけを研究した家康は、天皇の存在を恐れました。しかし、天皇を殺してしまうことはできません。そのため、自分が死んだ後は、自分が「東照大権現」という神となり、もし朝廷と対立しても、関東朝廷として「錦の御旗」を掲げられるようにとのことで日光を作ったようです。私は、単純に、江戸の守り神かと思っていたので、そこまで考えていたのかと驚きました。

江戸幕府の話に移ります。

江戸初期は、江戸と尾張と紀州の3つを御三家としていました。
その後、11男の頼房が水戸に入ったことで、尾張・紀州・水戸が御三家となりました。授業で習いましたね。

御三家

御三家

秀忠の後、家光が3代将軍となります。駿河大納言の話とかは省略されていました。この家光の時に、幕末まで続く鎖国政策をとることになります。

御三家のひとつ、水戸藩の話が出ます。参覲交代はすべての大名の義務だったのですが、水戸藩だけは、江戸から近いということで参覲交代せず江戸住みで将軍の相談役という役目を負うことになりました。その為、水戸藩は、そんな役職はないのですが、自分たちは特別な存在で、「天下の副将軍」と思ってしまったのです。

黄門しゃまとスケカク

黄門しゃまとスケカク

水戸家の三男光圀(黄門様)は、中国の史書のように、きちんとした日本の歴史をまとめたものが必要だと決意します。そこから「大日本史」の編集が始まるのです。宋学の影響をもろに受け、「尊王攘夷」という言葉も使います。そして、徳川将軍家を皇帝として敬うのではなく、天皇家が皇帝であると結論付けます。そのため、天皇寄りの史観で歴史を編集することになります。その結果、足利尊氏が悪人で、楠木正成が正義の人とか、そういう感覚が戦争が終わるまで引き継がれていくのです。

また、有名な助さん角さんですが、この大日本史の編集リーダーが安積覚(角さん)で、全国の古文書を求め旅をするのが佐々木介三郎(助さん)。黄門様は、全く旅をしていません…というネタバラシでした。

会津の始祖、保科正之

静たんの息子は、信州高遠藩の保科家の跡取りとして引き取られます。成長し、「保科正之」と名乗り、とうとう将軍家とお目見えします。家光に認められ、正之は将軍を一生懸命に支え、長年奉公します。その貢献もあって、親藩となり、「松平」姓を名乗ることができ、さらに三つ葉葵の家紋も許してもらいます。さらには、信州高遠から、会津若松への加増・転封も命じられます。明治維新で最期まで徳川家を支えた会津藩がここに生まれたのです。

保科正之

保科正之

家光が亡くなり、4代将軍家綱の後見人として、この正之が命じられます。
将軍が幼少のため、正之が「大老」として国政を仕切ることになりました。

正之の在任中に、「由井正雪の乱」と「振袖火事」という2大事件が起こります。火事は江戸時代の最大の悲劇と呼ばれるほど死者を出しました。正之は、乱も見事におさめ、火事被害の迅速な救済措置と防火都市としての変革を打ち出します。

見事な手腕で、次々と政策を打ち出し、中興の祖とされる8代将軍吉宗の手本になったそうです。吉宗の政策は、ほとんどこの正之が行ったものを大規模にしたに過ぎないものでした。
なぜこんなすごい人が、知名度低いんでしょうね。

将軍が、壮年となり正之は大老を辞職し、会津へ戻ります。
会津の学問は、日本神道で、水戸学よりもずっと勤皇精神に富んでいます。
元々、武士は天皇の政治外で生まれた勢力で、当然武士道としては、将軍の命令は天子の詔より重いはずなのですが、水戸学はそれを無視しました。
会津は、その原則に従い、最期までどちらも守ろうとしたのです。そして、幕末での悲劇へと繋がっていくのです。(孝明天皇から最も信頼され、幕府を最期まで守った)

正之は、遺言として会津藩の家訓を残します。
「将軍家のことを最も大切にし、一心に忠義を尽くすこと!」
会津藩は、幕末までこの家訓を守り続けるのです。

 

薩摩藩、世紀の大工事に挑む

話が変わって、薩摩藩。
幕府から尾張の木曽三川の堤防工事を命じられます。暴れ川で有名で、度々洪水を起こし、当然、難工事が予想されました。その工事を、薩摩藩単独でやれという幕府の嫌がらせなわけです。費用も多額で薩摩負担です。無茶苦茶ですね。当時の幕府は強力ですから、こういうことも命じられたわけです。

幕府役人の嫌がらせと、さらなる追加の出費を命じられ、
借金を重ね、奄美群島などの島民を奴隷の如く酷使し、なんとか金を作ります。この後も、しっかり顔の家老平田の苦悩が続きます。

家老平田(顔しっかり)

家老平田(顔しっかり)

 

また、余談ですが、八丈島へ流されていた宇喜多秀家がこの頃亡くなります。82歳の大往生でした。どの武将よりも長生きしたある意味「勝者」です。
彼の子孫が多く、現在まで残っているそうです。

 

【レビュー】戦国秘史を読んでみた【歴史小説】

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目次

  • ルシファー・ストーン    伊東潤
  • 戦国ぶっかけ飯       風野真知雄
  • 伏見燃ゆ 鳥居元忠伝    武内涼
  • 神慮のまにまに       中路啓太
  • 武商諜人          宮本昌孝
  • 死地奔槍          矢野隆
  • 春の夜の夢         吉川永青

はじめに

歴史小説のアンソロジーです。
以前読んだ「関ヶ原」と「大坂城」がとても面白かったので、期待して買いました。
異なる作者ですので、すごいお得感があります。
また、短編小説ですので、マニアックなところを取り上げられるのも魅力です。
この目次だけ見ても、鳥居元忠以外は、何の話かさっぱり分かりませんねw

 

感想(ネタバレあり)

1.ルシファー・ストーン

いきなりダヴィンチコードみたいな雰囲気で始まります。
堕天使ルシファーの怨念のこもったキリスト教にとって忌むべき石が盗まれ、東洋の果て日本にたどり着き、その石を手にしたものは、ルシファーの力を得てキリスト世界を滅ぼしてしまうとか。そういったファンタジーな話です。
石は信長からその後の主要人物へ転々と渡って行き…といった流れですが、私はあんまりでした。伊東さんの他の作品は好きなだけに、ちょっと残念。

2.戦国ぶっかけ飯

こんなグルメなタイトルの歴史小説初めて見ましたw
ある意味、グルメを極めてシリーズ化したら売れそうなタイトルです。
信長時代の羽柴が毛利を攻めている頃の毛利サイドの話です。
三木城のように、家臣たちを苦しめたくない姫が取ったグルメ作戦!
なかなか奇をてらった面白小説でした。

3.伏見燃ゆ 鳥居元忠伝

やっとまともな歴史小説が来ました!(コラ
タイトルを見てわかるように、関ヶ原の前哨戦、伏見城で籠城した鳥居元忠の話です。家康の人質時代から仕えてきたふるーい家臣です。辛かった駿府時代を半蔵などと共に過ごし、他の家臣たちとは次元の違う結びつきを持っていました。
ワタリ衆と呼ばれた、船を家として河川などを自在に渡って生活をする者たちを率い、その親分が鳥居元忠だそうです。そういう荒くれ者と共に、見事に伏見城の攻防戦となります。さらに、元忠の側室となった馬場民部の娘も絡んできて、話に深みを持たせます。
どうしても関ヶ原の戦に注目してしまいますが、これからはこの伏見城と京極姉弟の大津城の戦いなど詳しく調べていきたいと思いました。

4.神慮のまにまに

「宙のまにまに」のような”萌え”を彷彿させますが、全然違うおっさんくさい内容でした。主人公はなんと甲斐宗運!!キター!マニアックぅぅぅ!
信長の野望で、やたら強いハゲです。この人の話は全然知らなかったので、これはと期待して読みました。
宗運は、阿蘇家の軍師。しかも歴戦負けなしの大軍師。見事な軍略と外交で戦国の世を渡ってきました。長い間、北は大友家、南は相良家と結び、この同盟策が大いに功を奏しました。ところが大友が耳川の戦いで島津家に敗れてから潮目が変わります。宗運自身も、己の内なる神の声が聞こえなくなり、自信を失います。そんな中、相良家は島津に攻められ…と続きます。
悩みながら最善の策に苦悩する軍師、全く苦悩のかけらも心も通じない家族との掛け合い…お、面白い…⭐️3つ!

5.武商蝶人

徳川家の顧問商人として活躍した茶屋四郎次郎の話です。
神君伊賀越えで活躍したのは、知っていますが、織田や羽柴じゃなくて徳川を選ぶなんて変わった商人だなぁという印象でした。最終的に天下人になるので見事な慧眼と言えますが。
話は、足利義輝に四郎次郎が仕えるところから始まります。自分が好きだった将軍義輝とその側室小侍従を、三好三人衆と松永に殺されしまいます。感情が先走り、焦った上助けれなかった反省から、常に冷静に、先を見て、武としても商としても成長します。さらに諜報活動にも注力し、周囲の情報収集を怠らず、先々の不安を解消していくというスーパーマン的展開。ちょっと出来過ぎ。

6.死地奔槍

タイトルからは想像できないへっぽこ片桐且元が主人公!いい!
賤ヶ岳の七本槍と呼ばれた活躍の昔話を、秀頼のキラキラした瞳に見つめながらみんなの前でさせられるという羞恥プレーで始まります。現状の身上を鑑みれば、加藤や福島との差が歴然なのに...可哀想。
昔話は、大垣から木之本へ走って戻るマラソン中から始まります。市松、虎、権平と掛け合い漫才をしながら、ランナーズハイも満喫しつつ、仲良く走っていきます。松明の火を欠かさず、疲れた地点でのおにぎりの配置などの見事な佐吉の手配や、またそれを妬ましく思う、彼らの気持ちや人間関係もきっちり表現されています。
木之本へ着いてからは、佐久間盛政の追撃戦が始まりますが、柴田勝政の殿(しんがり)の見事さ(有能だったの!?)と、後退の機を見て一気攻勢をかける秀吉の神速の突撃。爽快感と現実(大阪城)のギャップにぐっときました…🌟3つ!

7.春の夜の夢

ほーねまで溶けるような~♪松任谷由美かなw
北条氏康の物語です。氏康といえば、有能アンド有能という印象です。舞台は有名な川越夜戦です。そもそも何であんな絶望的な状況になったのか不思議だったのですが、これを読んで、最悪のタイミングが重なったことが分かりました。
まず、北条家の跡継ぎ問題から。2代目から後継者選びで、勇猛な綱成を推す声がありました。ただ、彼は氏康の妹を娶っただけで、嫡子を差し置いて家督を取るなど以ての外と固辞します。ここに氏康と綱成の絶対的な信頼感が出来上がります。その後、氏康は、水陸の交通の要所川越を綱成に任せます。
そんな折、今川と和平交渉が決裂し、駿東へ攻めてきました。氏康も出陣し、こう着状態に入ります。武田も今川の援軍として参戦します。そんな中、川越は、扇谷・山内の両上杉家の大軍が川越を囲んでしまいます。援軍も出せない状況で、氏康はどうするのか...という展開です。単純に”有能”なんて簡単な言葉で表せられない、氏康の苦悩と苦労が垣間見える優秀作です。⭐️3つ!

まとめ

全部おもしろかったとは言いがたいですが、良作が少なくとも3作はあったので買いだと思います。短編は休憩時間などにサクッと読めるので好きです。

【レポート】京都高低差崖会の講演会~巨椋池~を聞いてきた

8月6日に宇治徳州会病院さんで、
「京都の凸凹を歩く 高低差から見た「巨椋池」周辺」
というセミナーを行うというので早速行ってきました。

最初は、京都高低差崖会…なんぞなそれ…と思いましたが、よく見ると
あっ!?ブラタモリのあの人か!と気づきました。

セミナーは、立派な椅子に座っての座学で、たくさんの人が来ており、
こんなマニアックなテーマなのに...意外と人気ありましたw
しかも凹凸じゃなくて凸凹です。

セミナーの様子

セミナーの様子

以下に、 簡単に学んだことをまとめてみました。

1.巨椋池は京都盆地の底

京都各地の標高を調べてみると、京都盆地で一番低いところがまさに巨椋池のあった場所だったのです。低いということは、そこに川が集約しますから、 池(湖)になるべくしてなったんですね。
また、巨椋池と伏見の間に、「宇治川断層」があり、この断層を境に、地下の基盤岩が200mも下がった崖のようになっているらしいです。

2.中世までの巨椋池

かつての巨椋池

かつての巨椋池

かつての巨椋池は、今の宇治橋を過ぎたところから宇治川がそのまま流れついていました。中州のような島が点在しており、それが今も「槇島」や「向島」の地名として残っています。
(補足:槇島は、最後の室町将軍・足利義昭がこもった槇島城で有名です。
デルタ地帯で、水に囲まれ攻めにくい城だったと思うのですが、信長にあっさり陥とされています。)

また、この巨大な池を避けるように宇治橋を渡り街道が通っています。
この街道が古代からある「大和街道」で、そのまま山科方面へ抜けることができます。

この当時の物流・交通拠点は、宇治と淀でした。
水運では、この拠点に荷物の上げ下ろしをし、京都をはじめ各地へ送られていきました。

3.大きく変わったのは豊臣政権

巨椋池

巨椋池

そんな中、豊臣秀吉が政権をとったとき、秀吉は、伏見を首都にしようと計画しました。

まず、宇治川の流れを変え、伏見方面まで迂回させるようにしました。
このとき、巨椋池に流れていかないように、「宇治堤」と呼ばれる堤防を造っています。

さらに、中洲の島を繋げるように、池の中にも「太閤堤」とよばれる堤防を造り、ここを街道として設けました。これが「新大和街道」と呼ばれることになります。
この新しい街道を抜けた先に、宇治川があり、そこを渡る橋として豊後橋(今の観月橋)を設けました。この橋は、宇治橋を移設したものです。

秀吉は、この大工事で、宇治と淀の交通としての拠点を廃止しました。
すべての、人・物・カネ・情報を伏見に集約するようにしたんですね。
この辺りが、信長から引き継がれる経済観念のもった支配者という感じがします。

4.干拓事業。巨椋池は姿を消すが地形は変わらず

昭和になるまで、秀吉の作ったこの大構想のまま続きました。(宇治は徳川時代に復活)
電車のJR腺や道路も巨椋池を避けるようにぐるっと大回りしているのがよく分かります。近鉄電車だけ干拓後に工事したので、まっすぐ通っています。

昭和に入って、政府は干拓事業を始めました。 埋立ではなく、干拓です。
つまり、水を抜いて開墾しただけなのです。

そのため、今でも旧巨椋池の地域は、他よりも低地のままであり、平成の今でも田園風景が広がり、人が住むには適していない地区となっています。

今でも歩いてみると、高低差を実感でき、水が失くなった巨椋池付近でも、往時を偲ぶことができます。

今回、まとめでは省きましたが、伏見城(指月城)のことも話に出ていました。
付近は、見所いっぱいです。ジャンクションマニアに有名な久御山ジャンクションもあります。(踊る大捜査のレインボーブリッジの代わりに撮影されました)
また、読み方が分からないことで有名な「東一口」「西一口」というところもあります。元阪神のモミ岡片岡篤史さんの出身地です。などネタも豊富です。

一度、実際に歩いてたりするとおもしろいと思います。ではでは。

【歴史漫画】風雲児たち第2巻読んでみた【敗残者たち】

風雲児たち第2巻のレビューです。

第1巻のレビューはこちらです

 ・・・ 関ヶ原後 ~ 大阪の陣 ・・・

関ヶ原での敗残者たちの話が続きます。

まず、毛利家は、新しい拠点「萩」を目指します。
萩は猫の額のように狭い土地。しかも瀬戸内海側でなく、日本海側です。
新しく発展するには非常に厳しい環境からスタートします。

毛利輝元

毛利輝元

 

島津家は、徳川を警戒して薩摩に初めて城を築きます。
そんな折、逃亡していた宇喜多秀家が薩摩へ訪れます。
島津家の懸命な助命嘆願が実り、宇喜多は死刑から八丈島へ島流しとなりました。八丈島へ初めて流された罪人1号です!おめでとう。
薩摩武士たちは、示現流の剣法を広め、ますます荒ぶっていきます。
さらなる勢力拡大を目論み、琉球を武力攻略しちゃうのです。

 

土佐では、新しい領主として「山内一豊」が入ります。

山内一豊と松

山内一豊と松

武功ではなく、ハッタリ・ゴマ擦り・夫婦の力で見事に立身出世した人物として有名ですね。この山内一豊は、懐かない長曾我部旧臣に手を焼きます。
そして懐柔策を取らずに、言うことを聞かない無法者たちに策を弄して一網打尽にしてしまいます。山内家の家臣と長曾我部旧臣との間に、上士下士という絶対的な身分制度を設けます。自国の領土でありながら、ひどい仕打ちを受け、
あまつさえ、関ヶ原で何一つ手出しをしなかったのにこの有り様ということで、
そんな怨みが、下士に代々受け継がれることになります。

 

次は、岡山城へ入った小早川秀秋。

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なんというアホ面

勝者でありながら、裏切り者のため、世間から後ろ指を指される状況に、
発狂してか、すぐ死んでしまいます。
秀秋は、裏切った理由として、三成ではなく、太閤が憎かったのだとこぼしています。
秀保・秀勝の無残な死に様(死んだ後の措置も含め)を見て、さもありなんと思ってしまいます。

 

徳川家は、家康から秀忠に将軍の座を譲ります。
豊臣家へ政権を渡さないと毅然とアピールをしたわけです。
秀忠は、大阪との関係冷え込みで、妻お江とも喧嘩が絶えなくなります。
そんな中、一目惚れしたのは、侍女の静たん…ドキ❤️

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本当の愛を知った秀忠ですが、残念ながら静たんは城を出て行きます。
この後、秀忠は、将軍として一人前の男として一皮剥けるのです(ズルッ

静たんは、出て行ったあと、実家で暮らしていたのですが、なんと将軍秀忠の子を身ごもっていました。将軍家は、秘密裏に彼女たちを匿います。

 

徳川家康と豊臣秀頼との会談後、秀頼の成長に危機感を覚えた家康は、
なりふり構わず、豊臣家を滅ぼす方策を急ピッチに進めます。

とうとう、徳川が豊臣を攻めるときが来ましたが、各大名は、すでに豊臣を応援する武力も財力も勇気もないのであります。結局浪人しか寄せ集められない大阪側の敗北が目にみえるのです。

⇒風雲児たち第3巻のレビューへ続く

【歴史漫画】風雲児たちオススメする【1巻】

「風雲児たち」とは

表紙が劇画調で、本屋で見かけても手にとらないタイプの漫画です(ぉぃ
初見の人向けには、ちょっと表紙で損してますね。

中身は、結構ギャグを織り交ぜて、絵も崩した感じになっています。
連載から期間が経っていますので、時代を感じさせるギャグも散見します。

で、この歴史漫画ですが、私は受験生にピッタリだと感じています。
文字・解説が多いので、歴史嫌いの人は厳しいかもしれませんが、
普通以上の人であれば、グッと江戸時代の理解が深まります。

学校の授業では、教科書では、表面的にしか習わないこと、
単語だけ覚えていることが線で繋がります。

歴史って当然ですが、人の歴史なんです。
急に何かが起こるわけではないのです。
その辺がよく分かる非常に良い歴史漫画だと思います。

また、漫画を読むだけで主要人物名は覚えられるのも楽だと思います。
テキストの人物名だけ見て、暗記ってつまらないですよね。

そういう意味も込めて、気楽に読み進めていけば、きっと良い結果に繋がると思います。予備校でも指定図書にすればいいのに

風雲児たち1巻

・・・ 関ヶ原 ~ 戦後処理 ・・・

関ヶ原の戦いから始まります。最初は、石田三成と大谷吉継との掛け合い漫才からスタート。歴史好きには、常識ですが、一般人には非常識の、西軍大将が石田三成じゃなく、毛利輝元だよという点から解説してくれています。

この関ヶ原の戦いで、他の作者と違う着眼点が、薩摩・長州・土佐の大名に注目したことです。私はそのように見たことがなかったので、素直に目からウロコでした。彼らは、遠方からわざわざ関ヶ原に来ながら、何も出来なかった大名たちなのです。(島津は一戦しましたが)

漫画のマップを見ながら解説すると、

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布陣は、家康の周りが敵(西軍)で囲まれています。
重要なのは、家康後方の山(南宮山)を陣取る毛利と長曾我部です。
この山を降りるには、一本道を通らないといけないのですが、
その先頭に陣取っているのが、毛利の分家であり軍師として参加した吉川広家なのです。

吉川広家

吉川広家

この吉川が家康と内通していた為、毛利も長曾我部も動けず、一戦もせぬまま、戦いが終わり、退却します。

島津は、三成の隣の好立地に陣取りますが、戦が始まっても、戦闘に参加せず、勝敗が決してから、家康率いる東軍に真正面から突撃して、敵中突破の上退却します。1600名の兵の内、生き残ったのは60人と言われています。

島津義弘

島津義弘

戦後処理では、一矢報いた島津が、本領安堵。毛利は、総大将のため、本来は取り潰しのところを吉川の働きで長州と周防の2カ国へ減封、長曾我部は、取り潰しとなりました。
この3国のうち、唯一取り潰しとなった長宗我部盛親は、単身、京都へ出て寺子屋の先生として生きていきます。

こういったことが幕末への大きな布石となります。

また西軍の主戦力として活躍した、宇喜多秀家にも話を割いています。戦後、なんとか無事、岡山城まで逃げかえりましたが、すぐに逃亡します。戦後処理で、その岡山城を引き継いだのは、裏切り者小早川秀秋だったのです。

宇喜多秀家

宇喜多秀家

宇喜多は、小早川を一番信頼していました。今、放送中の大河ドラマ「真田丸」で常に、三成グループとして、この宇喜多と小早川がいつも一緒に行動しているのを見ても分かると思います。この後の展開を考えると今から涙が出てきます...宇喜多は、一本気で裏表のない人物だったんだろうなと思います。

風雲児たち第2巻のレビューへ続く